巻頭言2016




 12月 我らは不屈の朗らか長者なり

我らは不屈の朗らか長者なり
                           池田大作

 わが師・戸田城聖先生の事業に、次から次へ試練(しれん)が襲(おそ)いかかる中で、私が深く拝(はい)した説話がある。

 それは、熱原(あつはら)の法難の渦中(かちゅぅ)、迫害(はくがい)の盾(たて)となって、師匠をお守りし、同志を庇(かば)いながら戦い抜いていた若き南条時光(なんじょうときみつ)への御書に記された逆転劇である。

 ―― 釈尊(しゃくそん)の門下の須達長者(すだつちょうじゃ)は、幾(いく)たびも貧窮(ひんきゅう)し、そのつど起ち上がってきた。とりわけ7度目の時は、夫婦2人きりで、万事休すの窮地(きゅうち)に追い込まれた。
 しかし、それでも夫妻は何も惜(お)しまずに、師の釈尊(しゃくそん)と弟子たちへ真心の限りを尽くした。すると、その決定した一念に呼応(こおう)して、状況は劇的に一変した。
 夫婦は「五天竺(ごてんじく)第一の長者」となり、師弟の大法城たる祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)を建立していったのだ、

 何度倒れようとも、起ち上がる。断じて起ち上がってみせる。この究極(きゅうきょく)の力こそ、不屈(ふくつ)の信仰なのだ。
 経済苦や仕事上の悩み、家族の課題、人間関係、病気の再発、さらには、自然災害など、人生には、これでもかと塗炭(とたん)の苦しみの打ち続く難局(なんきょく)がある。
 しかし、その時が、まことの信心が試(ため)される時だ。
「いよいよ強盛(ごうじょう)の信力をいたし給へ」(1143ページ)と題目を唱え抜き、負けじ魂で立ち向かっていくのだ。(1574ページ、趣意)

 「蘇生(そせい)の義(ぎ)」の妙法である。「絶対勝利の信心」である。打開の道を見いだせないわけがない。
 広宣流布の大願を掲(かか)げ、法のため、友のためにと、歯を食いしばって戦い切る時、「心の財(たから)」は無量に積まれ、思いもよらぬ境涯(きょうがい)が開かれるのである。

 創価とは
  負けない命の
    絆なり
  堂々 生き抜け
   いよいよ勝ち抜け


 恩師は、悩(なや)める友を抱(だ)きかかえて励(はげ)まされた。
 「どんな苦労をしていても、皆、地涌の菩薩だよ。
わが人生の劇で、妙法の偉人さを証明していくのだ。
必ず変毒為薬(へんどくいやく)して、笑って話せる時が来るよ」と。
 日々、聖教新聞に躍動する体験も、一つ一つが、何ものにも崩(くずれ)ない生命の賛歌といってよい。
      
 忘れ得ぬ北海道の丈夫(ますらお)は、信仰ゆえの職場の圧迫に怯(ひる)まず、誠実に信頼を広げた。わが子の急逝(きゅうせい)の悲しみを乗り越え、重篤(じゅぅとく)な心疾患(しんしっか)も勝ち越えてきた。
   
 夫妻で吹雪に胸を張って、「「創価学会」と書いた信心のゼッケンは、一生涯、命から離れない!」と、広布に走り続けてくれた。この誇り高き使命の襷(たすき)は、”三代城”の青年たちが受け継いでいる。

 11月

 座談会は人類蘇生のオアシスなり

SGI会長 池田大作


 良き友との語らいこそ、かけがえのない宝である。
 アメリカの哲人エマソンの言葉が蘇ってくる。
 「聡明な、心豊かな友と過ごせば、人生は二倍にも、十倍にも価値あるものになる」と。
 経文に「闘諍言訟(とうじょうごんしょう)」と説かれる通り、末法とは、人と人との争いが絶えず、麗しい人間の絆も、嫉妬や讒言(ざんげん)によって引き裂かれてしまう悪世だ。
 そのなかで、まるで奇跡のように、友情と信頼に潤う生命のオアシスを、日本中、世界中のいずこにも創り広げているのが、我ら創価の座談会である。
 老若男女を問わず、社会的な立場も超え、国籍や人種など、ありとあらゆる差異にとらわれず、皆が和気あいあいと融合できる、人類の平和の縮図だ。

 日蓮大聖人は、大難の渦中、門下一同へ「かかる濁世(じょくせ)には互につねに、いゐあわせてひまもなく後世ねがわせ給い候へ」〈御書 965p〉と呼びかけられた。
 さらにまた、「常によりあひて」〈1114p〉、「常にかたりあわせて」(P900)、「常にむつばせ給へ」(P1172)等々、繰り返し仰せになられている。
 御本仏が「たえまなく座談会を」と教えてくださっているように、私には拝されてならないのだ。
 創価の師父・牧口常三郎先生、戸田城聖先生は、よくぞ「座談会」というリズムを、広宣流布の心臓の脈動のように刻まれたと感謝は尽きない。
 どんなに地味であろうとも、毎月の座談会を積み重ねている限り、わが学会は前進する。

 妙法の 座談の会座に 和楽あり
  共に仏と いざや勝ち行け

 座談会は、民衆の大地に咲き香る花園だ。よそゆきの顔なぞ、いらない。ありのままに集い合えるのだ。ゆえに決して行き詰まらない。どこでも、いつまでも新鮮に、庶民の息吹と知恵で長続きできる。
 妙法で結ばれた、法華経の世界そのままの会座である。だからこそ、「はたからず・つくろわず・もとの儘」(P759)という、久遠からの無作の生命を、皆が伸びやかに呼び覚ましていけるのだ。
 恩師は、よく言われた。 
 「久遠元初は晴れやかな世界で、共に誓い合った地湧の菩薩の我々が、今また、この娑婆世界にそろって、楽しくにぎやかに湧出したのである」と。

 2011年秋の台風で、和歌山県新宮のご夫妻は、広布の会場のお宅が水没した。しかし「信心とは何があっても絶対に負けん心」と三ヶ月で家を修復し、感激の”復興座談会”を行われた。「わが地域は、座談会から一歩前進です」と。
 座談会こそ「人間を強くし、より善くし、より賢くする」世界宗教の真価が発揮される広場だ。
 座談会場を提供してくださっている全てのご家庭の無事安穏と、益々のご多幸をお祈りしたい。
 いにしえ、仏法者の修行の会座は「不敗の集い」だ。
 世界広布新時代の「対話の拡大」「境涯の拡大」そして「青年の拡大」へ、座談会から出発しよう!


 10月

皆が「幸福学」の博士に!


 若き日、心に刻(きざ)んだビクトル・ユゴーの一節に、「羅針盤(らしんばん)さえもっていれば、嵐(あらし)もこのわたしには大したことではありません」とあつた。

“人類の精神史は、確かな哲学の羅針盤を求め続けてきた歩みであるといっても、過言(かごん)ではあるまい。
 その渇望(かつぼう)に余(あま)すところなく応(こた)え得(え)る、生命尊厳(せいめいそんげん)の永遠の羅針盤が、日蓮大聖人の「御書全集」である。

 御書には、いかなる人生の宿命(しゅくめい)にも立ち向かう勇気が漲(みなぎ)っている。いかなる悲嘆(ひたん)の人をも蘇生(そせい)させずにはおかぬ慈悲(じひ)が溢(あふ)れている。いかなる時代の試練(しれん)も打開(だかい)しゆく智慧(ちえ)が輝き光っている。
 創価家族が皆で取り組んでいる、教学部任用試験は、この最極の「幸福学」への入門といってよい。


「日蓮は一閻浮提(いえんぶだい)第一の聖人(しょうにん)なり」(9741)

 これは戦時中、臆病(おくびょう)な僧(そう)らが弾圧(だんあつ)を恐(おそ)れ、こともあろうに御書から削除(さくじょ)してしまった大宣言である。

 牧ロ常三郎先生、戸田城聖先生の不惜身命(ふしゃくしんみょう)・死身弘法(ししんぐほう)の、闘争(とうそう)が示してくださっている通り、学会教学の真髄(しんずい)とは、どこまでも御書のままに、御本仏の大生命に触れれて、境智冥合(きょうちみょうぎょう)していくことだ。

 自分の小さな境涯(きょうがい)では行き詰(づ)まってしまう壁(かべ)も、大聖人の御境涯を拝(はい)すれば、絶対に行き詰まらない。 「法華大海(ほっけたいかい)の行者(ぎょうじゃ)に諸河(しょが)の水は大難(だいなん)の如(ごと)く入れども・かへす事とがむる事なし」(1448ページ)と仰せの如く、大海原(おおうなばら)のような心で悠然(ゆうぜん)と進みゆけるからだ。
 このことを証明(しょうめい)してきたのが、わが学会員である。


 宿命も
  使命に転ずる
   大仏法
  学び創れや
   無限の希望を


 御聖訓には、「須梨槃特(すりはんどく)は三年かかって十四文字を暗唱(あんしょう)できなかったが、仏になった。提婆達多(だいばだった)は、六万蔵という膨大(ぼうだい)な経典を暗記(あんき)したが、無間地獄(むげんじごく)に堕(お)ちた」(14721ページ、趣意)と厳(きび)しく戒(いまし)められている。

 読み書きが苦手な中、懸命(けんめい)に御文を心肝(しんかん)に染(そ)めて、同志を激励し、悩めるあの友もこの友も仏法に導いてくれた草創(そうそう)の父母を、私は忘れることができない。

何のための、教学であるか。
 共に励まし、共に「一生成仏(いっしょうじょうぶつ)」するためである。
「異体同心(いたどうしん)」の団結を強めていくためである。
障魔(しょうま)に勝ち「仏法勝負(ぶっぽうしょうぶ)」の証(あか)しを示すためである。
「立正安国(りっしょうあんこく)」の平和な社会を築(きず)くためである。
妙法を世界へ「広宣流布」するためなのである。

 日興上人(にっこうしょうにん)は、御書が外国語に翻訳(ほんやく)されて広く世界に伝えられる「広宣の日」を願(ねが)われてやまなかつた。

 うれしいことに、今、地球を包(つつ)む壮大(そうだい)なスケールで御書が学ばれる時を迎えている。民族や文明などの差異(さい)を超えて、「生命」というも最とも普遍的(ふへんてき)な共通の大地から“人類を結び合わせる宝典(ほうてん)なのである。

 心広々と縁(えん)する友と一緒に学び合い「幸福学」の博士のスクラムを拡大しょう! 恩師が御書全集の「発刊の辞」に掲げられた御金言を拝しながら!
「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は、信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」 (1361ページ)



 9月 多宝の命に永久の勝閲を

 我らには、朝な夕な謳(うた)い上げる生命の讃歌(さんか)がある。   
 妙法という大宇宙の根本の法則(ほうそく)に合掌(がっしょぅ)する「勤行」の会座(えざ)である。三世十方(さんぜじゅっぽう)の仏菩薩と一体となって、諸天(しょてん)を動かし、国土まで照(て)らしゆく荘厳(そうごん)な儀式(ぎしき)だ。

 仏法の最極の経典たる法華経の方便品(ほうべんぼん)と寿量品(じゅりょうほん)を、今や世界中の友が、日々たゆまず読誦(どくじゅ)している。
      
 「常説法教化(じょぅせっぽうきょぅけ) 無数値衆生(むしゆおくしゆじょぅ) 今人於仏道(りょうにゅぅおぶつどう) 爾来無量劫(にらいむりょうこう)」」自我掲(じがげ)には、尽(つ)きることのない仏の智慧(ちえ)と慈悲(じひ)と寿命(じゅみょう)が明かされる。

 この永遠なる大境涯に、私たちは連なっている。
寿量文底の大法を行ずる境地は、まさに赫々たる久遠の大生命なのだ。その模範(もはん)こそ、学会と共に広宣流布に生き抜いてきた多宝の方々といってよい。


法華経の展開では、学んだ無数の仏子たちもまた、 仏から寿命(じゆみょう)の長遠(ちょうおん)なることを大功徳(だいくどく)に包(つつ)まれる。

それは、多宝会(たほうかい)・宝寿会(ほうじゅかい)・錦宝会(きんぽうかい)の先輩方の福徳(ふくと)あふれる生命の輝(かがや)きにふれ、創価家族が皆、歓喜に満ちていくことにも通ずると、私は思ってきた。
生身の人間であるから、加齢(かれい)とともに生老病死(しょうろうびょうし)の悩(なや)みは避(さ)けられない。使命ゆえにしかし日蓮大聖人は、故(ゆえ)に枝(えだ)をまげらる」
諸難(しょなん)も襲(おそ)い来る。

「松は万年のよはひを持つとされ、「法華経の行者(ぎょうじや)は久遠長寿(くおんちょうじゅ)の如来(にょらい)なり、修行の枝(えだ)をきられ・まげられん事疑(ことうたがい)なかるべし」(1136ページ)我らはと仰せになられている
   
「久遠長寿(くおんちょぅじゆ)の如来(にょらい)なり」との大確信に立っ一切を悠然(ゆうぜん)と乗り越(こ)えていくのだ。

 功労の
  父母(ちちはは)ありて
    広布あり
  健康長寿を
      皆で祈らむ

 5年前の東日本大震災で、広布の会場だった自宅まで流されてしまった東北の多宝の母がいる。仮設住宅に住まわれ、地域の友と励まし合ってこられた。
「よし、この命を広布のために、皆のために使おう。ここからが、私の本当の人生だ!と誓うと、朝、起きるのが楽しくなりました。学会と共に負けない人生こそが、私の最高の誇りです」と。

 こうした不屈(ふくつ)の「地涌(じゆ)の菩薩(ばさつ)」の汗と涙で築(きず)き上げられてきた民衆の連帯こそが、創価学会である。

人類の希望と光る「平和」「文化」「教育」の大城を、
我が大勝利の人生の誉(ほま)れと胸を張(は)って頂(いただ)きたい。
 一人一人ので心の財は永遠に不滅(ふめつ)であり、後継の人材たちも厳然(げんぜん)と受け継(つ)いでいくであろう。
 日本も世界も、空前の高齢社会へ突入(とつにゅう)していく。
 その活路(かつろ)を開きゆく光こそ、妙法の蘇生(そせい)の哲理(てつり)であり、創価の希望のスクラムであるといってよい。
 多宝の父母は太陽である。太陽が輝くところ、青年部も未来部も元気に育つ。地域の信頼(しんらい)も広がる。
     
 大聖人は、遠く離れた千日尼(せんにちあま)に書き送られている。
 「我等は穢土(えど)に候へども心は霊山(りょうぜん)に住(すむ)べし、御面(おんかお)を見てはなにかせん心こそ太切に候へ、いつかいつか釈迦仏のをはします霊山会上(りょうぜんえじょう)にまひりあひ候はん」(1316ページ)と。

 御本仏と一緒に、妙法と一緒に、我らは師弟(してい)して、生命の常楽我浄(じょうらくがじょう)の旅を続けゆこうではないか!
 誇り高き多宝の命(いのち)に、永久(とわ)の勝鬨(かちどき)あれ!

 8月 ここに「地涌」の泉あり

 生命錬磨(せいめいれんま)の夏― 戸田先生は私たち青年と研鑽(けんさん)の汗を流しながら、問いを発せられたことがある。
 「末法という乱世(らんせい)の中の乱世に、なぜ、我々は生まれ合わせ、集(つど)い合っているのか?」
 若人たちの顔を見つめつつ、先生は言われた。
 「仏の仕事をするために生まれてきたんだよ」と。

 現実(げんじつ)は皆、生活苦や病気など悩(なや)みの連続であった。
 しかし、それは、不幸(ふこう)な人々を教うために、あえて願って引き受けた姿であると、教えてくださった。
 だから、いかに厳(きび)しい「宿命(しゅくめい)」も必ず打開(だかい)できる。
 皆の幸福(こうふく)を勝ち問く「使命(しめい)」に変わらぬわけがない。
 人間として最も深く、最も強い生命の目覚(めざ)め—それが「我、地涌の菩薩なり」との自覚(じかく)なのである。

 「御義口伝(おんぎくでん)」には仰(おお)せである。
 「日蓮等の類(たぐい)い南無妙法蓮華経と唱え奉(たてまつ)る者は従地涌出(じゅうちゆじゅつ)の菩薩(ぼさつ)なり外(はか)に求(もと)むること莫(な)かれ」(799ページ)
 日蓮大聖人が唱え始められた妙法は、地球という星に地涌の菩薩を涌出(ゆじゅつ)させゆく大音声(だいおんじょう)である。

 いずこであれ、自行化他(じぎょうけた)の題目が轟(とどろ)くところ、地涌の菩薩は躍(おど)り出る。敗戦で荒廃(こうはい)し切った日本の悲嘆(ひたん)の大地から、御書に説かれる「地涌の義」のままに勇ん(いさ)で立ち上がったのが、創価の師弟である。
 どんな境遇(きょうぐう)の人にも妙法を教え、仏の生命を涌現してみせる。どんな環境の地域にも題目の種を蒔(ま)き、地涌の人材を出現させてみせる。この断固(だんこ)たる祈りで、我らは広宣流布の道なき道を開いてきたのだ。


幸(さち)の城
  地涌(じゆ)のスクラム
    創(つく)リゆけ
  誉(ほま)れの宝土(ほうど)に
     永遠(とわ)の都(みやこ)を

 そして今、全世界で「地涌の義」を壮大(そうだい )に証明(しょうめい)する感激(かんげき)のドラマが、一日一日、織(お)り成(な)されている。
 アフリカ大陸の悠久(ゆうきゅう)なるナイル川の源流の地でも、創価の若人が歓喜踊躍(かんきゆうやく)して仏法を語り、平和と共生のスクラムを広げてきた。

 昨年4月、大地震に襲(おそ)われたネパールからも、厳然たる諸天(しょてん)の加護(かご)と変毒為薬(へんどくいやく)の体験の報告が屈いている。わが同志は、いやまして地涌の菩薩の誇(ほこ)りに燃え、悩(なや)める人々に手を差し伸べているのだ。
 大変であればあるほど、いよいよの勇気を、智慧(ちえ)を、慈愛(じあい)を喜び漲(みなぎ)らせていくことができる。これこそ「地涌」の泉である。妙法受持(みょうほうじゅじ)の人が立つ天地には、この無限の希望の泉(いずみ)が満々(まんまん)と湧(ゆ)き起こるのだ。

 地涌の菩薩を呼び出す誉(ほま)れの舞台は、どこにあるか。それは、わが地区であり、わがブロックである。
 各地の尊き幸福責任者の方々が、誠実に粘(ねば)り強く訪問や励ましを重ねる。その執念(しゅうねん)の祈りと行動こそ、地涌の宝友(ほうゆう)を一人また一人と糾合(きゅうごう)していくのだ。
 たとえ、すぐに発心せずとも、陰徳陽報(いんとくようほう)は計(はか)り知れない。地域の人材域を守り栄えさせゆく、地道(じみち)にして偉大な労苦(ろうく)に、私は合掌(がっしょう)し南無する日々である。

 太陽が昇(のぼ)れば闇(やみ)は消え去(さ)る。地涌の生命は太陽だ。
 地域に一人の新しき地涌の友が登場すれば、どれほど明るく一変するか。そこから拡大(かくだい)の光が広がる。
 さあ、諦(あき)めの惰性(だせい)を打(う)ち破(やぶ)る題目だ。わが足下(あしもと)から、新たな「地涌の義」を示(しめ)しゆこうではないか!

 7月 賢者はよろこび愚者は退く

大白蓮華 2016年(平成28年)7月号(No.801)

「賢者はよろこび愚者は退く」
創価学会名誉会長  池田大作

 幸福は、いずこにあるか。いかにして勝ち開くか。
 大文豪トルストイは、一つの結論として語った。
 「幸福とは、人生における自分の使命を、喜んで果たしゆく中にある」と。
 財宝(ざいほう)でもなければ、名声(めいせい)でもない。安逸(あんいつ)でもない。
 むしろ、逆境(ぎゃっきょう)や誹膀(ひぼう)や艱難(かんなん)をも、勇(いさ)んで迎(むか)え撃(う)ちながら、使命を遂行(すいこう)していく。この戦い続ける命の燃焼(ねんしょう)にこそ、喜びがある。誇りがある。充実(じゅうじつ)がある。
 ここに、幸福の内実(ないじつ)があるのではないだろうか。

 争(あらそ)いが絶(た)えない、闘諍言訟(とうじょうごんしょう)という末法の悪世(あくせ)で、広言流布の大願を掲(かか)げ、「声仏事を為(な)す」と、信念の対話を繰(く)り広げゆく我が創価の友の顔を見よ!
 何と誉(ほま)れ高く、何と清々(すがすが)しい光を放っていることか。

 御本仏・日蓮大聖人は、竜の口の法難をはじめ、身命(しんみょう)に及ぶ大難を勝ち越えられて、仰せになられた。
 「ついにをそれずして候へば、今は日本国の人人も道理(どうり)かと申すへんもあるやらん」(1138ページ)

 すなわち、いささかも恐れなく、終始一貫(しゅうすいっかん)して、正法正義を師子吼(ししく)なされてきた。だからこそ、敵対(てきたい)してきた人々さえも、”大聖人の仰(おっしゃ)ることが道理ではないか”と感服(かんぷく)せしめるに至(いた)ったのである。

 この大聖人の忍難弘通(にんなんぐつう)に、我らは真っ直ぐに連(つら)なり、今、世界にまで共鳴(きょうめい)と信頼を広げている。

 マハトマ・ガンジーが洞察(どうさつ)した、偉大な運動が経(へ)る五段階、つまり無関心(むかんしん)・嘲笑(ちゅうしょう)・非難(ひなん)・抑圧(よくあつ)を突(つ)き抜(ぬ)けた尊敬(そんけい)の段階に入っていることを自負(じふ)したい。


 強盛の
  祈りで開けや
   わが人生
  いかなる試練も
     逆転勝利を

 恩師・戸田城聖先生は、いかなる苦境(くきょう)にある同志も抱きかかえながら、徹(てっ)して励まし抜かれた。
 「何かあっても、信心を強くしてくれる宝なんだ。大きな宿命(しゅくめい)と戦う人ほど、大勢の悩む人を救っていける使命があり、力を出せる。そして、どんな国土も、妙法の力で必ず変えていけるんだよ!」と。
 この通りに、「人間革命」即「立正安国」の蘇生(そせい)の実証を、わが友はたくましく打ち立ててきた。

 あの伊勢湾台風(いせわんたいふう)の折、自(みずか)らも被災(ひさい)しながら救援(きゅうえん)に奔走(ほんそう)してくれた忘れ得ぬ中部の父母がいる。幾多(いくた)の苦難(くなん)を踏(ふ)み越(こ)え、大変であればあるほど、打開(だかい)した喜びは大きいと微笑(ほほえ)む。「これからが庶民の幸福を勝ち取る本当の戦い」と、ますます意気軒昂(いきけんこう)である。

 池上兄弟への御聖訓(ごせいくん)には、「必ず三障四魔(さんしょうしま)と申す障(さわり)いできたれば賢者(けんじゃ)はよろこび愚者(ぐしゃ)は退(しりぞ)くこれなり」(1091ページ)と記(しる)されている。
 人生も、社会も、世界も試練(しれん)が尽(つ)きることはない。
 それゆえに、思いも寄らぬ事態が出来(しゅったい)しようとも、「退(しりぞ)く」ことなく「よろこび」立ち向かう連帯を鍛(きた)え広げることが、確かなる幸福と平和の大道である。
 そのための生命の錬磨(れんま)こそ、日々の信行学の実践であり、たゆまざる希望拡大の学会活動なのである。

 栄光の男女青年部の結成より、65周年——。
法華経に説かれる通り、全世界の大地から、地涌(じゅ)の賢者(けんじゃ)が躍り出る時が到来(とうらい)した。「賢者はよろこび」と勝利の舞(まい)を共に舞いながら、いざや前進だ!

 6月 婦人部65周年に幸の凱旋曲を

大白蓮華 2016年(平成28年)6月号(No.800)

創価学会名誉会長  池田大作
婦人部65周年に幸の凱旋曲を

 戸田城聖先生が第二代会長に就任された当時、よくご一緒に拝読した御書が「諌暁ハ幡抄(かんぎょうはちまんしょう)」である。
 その中で、日蓮大聖人は、ご自身の「立宗宣言」以来の法蔵について、こう記されている。
 「只妙法蓮華経の七字五字(しちじごじ)を日本国の一切衆生(いっさいしゅじょう)の口に入れんとはげむ計りなり、此れ即母の赤子の口に乳(ちち)を入れんとはげむ慈悲(じひ)なり」(585ページ)と。

 大聖人の仰せ通り妙法を弘(ひろ)めゆく地涌(じゆ)の行動は、命を慈(いつく)しみ育(はぐく)む母の慈悲(じひ)と一体不二(いったいふに)なのだ。
 学会常住の御本尊を奉(ささ)げられた戸田先生が真っ先に手を打たれたのも、婦人部の結成であった。
 まさに「大法弘通慈析広宣流布」の門は婦人部によって聞かれた。この6月で65周年となる。

 我らの民衆連帯の真ん中には自他共(じたとも)に「生命の尊厳(そんげん)」を輝かせゆく母たち、女性たちの心がある。
それゆえに、強く、明るく、温かいのだ。
 家事と仕事の両立、子育て、白身と家族の健康、介護(かいご)など、日々の生活は慌(あわ)ただしい。
 これまでになかった少子高齢社会の厳しい課題にも直面しながら、学会活動に励むことが、どんなに尊いことか。

 あの草創の学会婦人部のたくましさ、朗らかさをそのままに受け継ぎつつ、新時代の白ゆりのスクラムは、いっそう爽やかに清々しく、地域に信頼の花、友情の花を咲かせてくれている。

 大変なればこそ、「極楽(ごくらく)百年の修行」に勝(まさ)る「一日の功徳」を積(つ)んでいることを毅然(きぜん)と確信されたい。

 大腸が
  昇(のぼ)るが如(ごと)き
    母たちの
  幸福勝利(こうふくしょうり)は
    永久(とわ)に光らむ

 女性の弟子へ送られた御聖訓に「人の地に依(よ)りて倒(たお)れたる者の返って地をおさへて起(たつ)が如(ごと)し」(552ページ)という力強い讐喩(ひゆ)がある。
 長い人生の旅にあっては、倒れるような時もある。
 しかし、倒(たお)れても終わりではない。また立ち上がればよいのだ。その希望の源泉が信心である。そして、この不屈(ふくつ)の希望の当体こそ、創価の女性なのである。

 大聖人はさらに、こうも仰せになられた。
 「口に妙法をよび奉(たてまつ)れば我が身(み)の仏性もよばれて必ず顕(あらわ)れ給(たま)ふ、梵王(ぼんてん)・帝釈(たいしゃく)の仏性(ぶっしょう)はよばれて我等(われら)を守り給ふ、仏菩薩の仏性はよばれて悦(よろこ)び給(たま)ふ」(557ページ)

 わが婦人部の題目が轟(とどろ)き、励ましの声が響くところ、無限の蘇生(そせい)と歓喜(かんき)のドラマが広がりゆくのだ。
 幾(いく)たびも苦楽(くらく)を分かち合ってきた「常勝関西の母」たちと、私は語り合ったことがある。
 「優雅(ゆうが)に泳いでいるように見える白鳥(はくちょう)も、水の下では懸命(けんめい)に足を動かしている」と。
 来る日も来る日も、人知れず汗を流してくれている婦人部の奮闘(ふんとう)あればこその広布の前進であることを、ゆめゆめ忘れてはならない。

 創価の母たちの祈りと労苦(ろうく)に応えて、民衆の幸福と人類の平和に貢献(こうけん)しゆく若き地涌の人材を、一人でも多く育てていきたい。この負けじ魂(たましい)の正義の陣列(じんれつ)を社会へ送り出すことが、立正安国の勝利である。
 世界一の婦人部の65周年だ。いやまして楽しく賑(にぎ)やかな幸の凱旋曲(がいせんきょく)で、飾(かざ)りゆこうではないか!

 5月 地涌の若人と常勝歓喜の舞を!

大白蓮華 2016年(平成28年)5月号(No.799)
創価学会名誉会長  池田大作
地涌の若人と常勝歓喜の舞を!
 いかなる試練(しれん)の時代、いかなる苦難(くなん)の社会にも、生命尊厳の希望の哲理(てつり)を掲(かかげ)げ、正義のため、民衆のため、平和のため、喜(よろこ)び勇(いさ)んで戦おうではないか!
 時を超え、国を超えて、「法華経(ほけきょう)」が呼びかけてやまない、この魂のメッセージに応えて立ち上がった「地涌の菩薩」の群像(ぐんぞう)こそ、わが創価学会である。
 日蓮大聖人の仰せの如く、一閻浮提(いちえんぶだい)が打ち乱れる闘諍(とうじょう)の只中(ただなか)で、牧口常三郎先生、戸田城聖先生は、身命(しんみょう)を賭(と)して広宣流布の道を開いてくださった。
 両先生が最大に信じ期待されたのは、青年である。
青年にこそ、強く正しく清らかな地涌の生命が躍動するからだ。創価の師弟が広げてきた「歓喜踊躍」(かんき)の青春の舞は、今やこの地球を包み始めている。
 地涌の若人の涌出(ゆじゅん)は、待つものではない。先頭に立って呼び出すのだ。一緒に戦い、育て鍛(きた)えるのだ。
 思えば、大聖人御自らが、こよなく青年を慈(いつく)しまれ、相次(あいつ)ぐ法難(ほうなん)の中で、薫陶(くんとう)し、鍛錬(たんれん)なされていた。
 ある年の5月3日、若き南条時光(なんじょうときみつ)へのお手紙には、「大事だと思っている人たちが信心を制止し、大難が来る時がある。その時こそ、まさに諸天(しょてん)の守護(しゅご)が厳然と現れると確信し、いよいよ強盛に信心に励んでいきなさい」(1512ページ、趣意)と仰せである。
 吹き荒れる烈風(れっぷう)に怯(ひる)まず、勇敢(ゆうかん)に思い切って広布の大願に挑みゆく若人の色心(しきしん)には、妙法と一体不二(いったいふに)の無限のエネルギーが漲(みなぎ)るのだ。その正義の丈夫たち、乙女たちを、仏天は必ずや守らずにはおかない。
 わが胸に
  広布の炎(ほのお)は
   烈々(れつれつ)と
   地涌の誓いを
     青年(きみ)と果(は)たさむ

 60年前、愛する関西の天地で、私は、いまだ入会まもない青年たちと、新たな民衆勝利の歴史を開きゆかんと、未聞の拡大に挑戦していった。
 私はリーダーに語った。「一人の百歩前進も尊(とうと)いが、それ以上に百人の一歩前進こそ大切だ。そのためにも、一人一人の名前を思い浮かべて祈ろう」と。
 この時、共に奮闘(ふんとう)した兵庫の青年は、口下手に悩み、夜遅く郵便ポストを相手に対話の練習を重ねた。
 そうした誠実な努力を私は讃えた。「一人の青年にここまで」という学会の励ましに涙した彼は、恩返しの心で一生涯、後輩を大切に励まし抜いてくれた。
 「信心で人生が変わる——この溢(あふ)れんばかりの歓喜で活動して、結果が出ないわけがありません」と。
 「広宣流布」「立正安国」は、人間群に飛び込み、現実の社会を変えていく大闘争である。その行動の中で、一人一人の「人間革命」の歓喜の劇が広がる。
 女子部の友が研鑽(けんさん)する華陽会御書30編の一つ、一生成仏抄には、「皆我(みなわ)が一念(いちねん)に納(おさ)めたる功徳善根(くどくぜんこん)なりと信心を取るべきなり」(383ページ)と記される。
     
 仏道修行(ぶつどうしゅぎょう)は人の何倍も忙(いそが)しく苦労も多い。心ない悪口を浴びせられることも、人知れず悔(くや)し涙を流すこともある。しかし、だからこそ、無量無辺(むりょうむへん)の「心の財(たから)」が積まれ、福徳は計(はか)り知れないのだ。
 創価の民衆運動は、金剛不壊(こんごうふえ)の信念を持つ地涌の人材を、社会へ世界へ未来へ送り出す大地である。
 さあ、若人(わこうど)と共に、若人の心で、常勝歓喜(じょうしょぅかんき)の舞(まい)を!

 4月 一人ももれなく!喜びの舞を

一人ももれなく!喜びの舞を


 悠久(ゆうきゅう)のシルクロードの天地で語り継(つ)がれてきた英知の言葉(ことば)が、思い起こされる。
 それは、「良き人と友情を結べば、人生において、すべてを勝ち取ることができる」というのである。
 人間同士の豊かな「つながり」は、健康と長寿においても、かけがえのない力を持っていることが、
 今、医学的に多次元(たじげん)から立証(りっしょう)されている。
 深刻(しんこく)な孤立(こりつ)や無縁が憂慮(ゆうりょ)され、心の砂漠(さばく)が広がる少子高齢社会にあって、温かな思いやりに潤う命のオアシスこそ、創価の地区であり、ブロックである。
 我らは、来る目も来る年も、勇気と誠実の対話を重ねながら、人類をつなぐ友情のシルクロードを、遂に世界192カ国・地域まで間いてきたのだ。
 御聖訓には、「無一不成仏(むいちふじょうぶる)と申(もう)して南無妙法蓮華経を只(ただ)一度申せる人・一人(いちにん)として仏にならざるはなし」(1573行)と記されている。
 人々を幸福にする妙法の功力とは、これほどまで
に大きい。ゆえに仏縁(ぶつえん)を結ぶことが、いかに大切か。
 また、広宣流布の陣列(じんれつ)に、ひとたび縁(えん)した一人一人が、いかに大事な存在か、計(はか)り知れないのだ。
 日蓮大聖人は門下に、「一日片時(いちにちかたとき)であっても私の命を助けてくれた人々であるから、どうして他人のように思えようか」(1489ページ、趣意)と仰せである。
そして、その人の難しい立場を思いやられ、「何があ
ろうとも、どうして、あなた方を見捨(みす)てるようなことがあるでしょうか」(同行、趣意)と明言された。
幸福と
  勝利をつかむ
    広市旅
   あの友この友
     皆で愉快に
 御本仏の慈悲は、あまりにも広大無辺(こうだいむへん)であられる。
このお心を拝(はい)する創価家族のスクラムは、この世で最も明るく、麗(うるわ)しく、大らかな人間の絆(きず)なのだ。
 今、思うように会合に参加できない同志もいる。
 あるいは、組織から遠ざかって久しい場合もあろう。
 しかし皆、宿福深厚(しゅくえんじんこう)なるゆえに、妙法を受持した地涌の菩薩である。
 心田(しんでん)に蒔(ま)かれた仏種(ぶっしゅ)が、芽吹(めぶ)き、育(そだ)ち、花間いていかないわけがない。
 だからこそ、強盛に題目を送り、「歓喜の中の大歓喜」の波動(はどう)を、友の生命に伝え広げていくのだ。
 真心込(まごころこ)めて訪問・激励を、粘(ねば)り強く重ねていくのだ。
 創価の励(はげ)ましの達人たちは、まさに「柔和忍辱(にゅうわにんにく)の衣」を帯して、慈愛(じあい)の包容力(ほうようりょく)を発揮してくれている。
 たとえ、すぐに相手が発心しなくとも、焦(あせ)ることはない。祈り、動き、打ち込んだことは、「一念三千(いちねんさんぜん)」の力用(りきよう)で、未来までも変えていくからである。
 「一人」のためにと、2日がかりで、九州まで足を運ばれた、牧口常三郎先生は語られた。
 「私の足跡(そくせき)の後に必ず青年が続々と続きます」と。
創立の父の率先垂範(そっせんすいはん)を偲(しの)びつつ、私が九州へ第一歩を印したのは60年前、大阪の戦いの渦中(かちゅう)であった。
九州の宝友は、私と不二(ふに)の心で立ち上がってくれた。  
 広宣流布、立正安国(りっしょぅあんこく)の大誓願に勇(いさ)んで挑(いど)む歓喜踊躍(かんきゆやく)の舞は、必ずや新たな地涌(じゆ)の友を呼び出すのだ。
 さあ、栄光の5月3日から、創価女性の月・6月へ、青年凱歌(がいか)の7月へ、楽しく賑(にぎ)やかに大前進を!

 3月 丈夫よ「この道」勝ち抜け!

大白蓮華 2016年(平成28年)3月号(No.797)

丈夫よ「この道」勝ち抜け!
創価学会名誉会長  池田大作

 我ら壮年部は、1966年(昭和41年)3月、婦人部、青年部に遅(おくれ)るること15年にして誕生した。
 思えば、法華経の会座に最後に馳(は)せ参(さん)じたのは、普賢菩薩(ふげんぼさつ)である。普賢は遅れを取り戻す如く、末法に法華経の行者を守護することを、真剣に誓った。
その熱誠(ねっせい)を、仏はことのほか喜ばれたのである。

 壮年部の結成に当たって、私たちは約し合った。
 「壮年部は、各部のなかの一つの部ではない。各部の調和をとり、責任をもって、学会を、会員を、守る。創価の城を支えゆく、黄金柱(おうごんばしら)になるのだ」と。

 この誓いのままに、妙法の名将たちは奮い立った。
 私と共に、広宣流布の責任を担い、支部で、地区で、ブロックで、同志を励まし、守り抜いてくれた。

 学会が、諸難(しょなん)ありとも、微動(びどう)だにせず、大発展を遂(あ)げてきたのは、まさしく「黄金柱」たる壮年が、いずこの地にも雄々(おお)しく屹立(きつりつ)しているからである。
      
 いかなる社会と人生の烈風(れっぶう)が吹き荒れようとも、歯を食いしばって厳然と、創価の城を支えてくれた尊き父たちのことを、どうして忘れられようか。
    
 日蓮大聖人は、「天・地・人を貫(つらぬ)きて少しも傾(かたむ)かざるを王とは名けたり」(1422ページ)と仰せである。
 大宇宙をも包(つつ)みゆく、壮大な「一念三千」の法理を行ずる我らだ。  
 権力によらず、財力にもよらず、ただ一人の男として生命の本源の底力を発揮し、生老病死(しょうろうびょうし)の苦悩に応戦して、創価家族を牽引(けんいん)するのだ。
 無名無冠(むめいむかん)なれど、最も誇り高き人間王者である。


  丈夫よ
   この道勝ち抜け
    友のため
   王者の戦を
     堂々飾れや


 恩師・戸田城聖先生は「王者の中の大王者」の道を進み抜かれた。先生は悠然(ゆうぜん)と語られている。
 「私は、かりに地獄に堕ちたとしても平気だよ。
 その時は、地獄の衆生を折伏(しゃくぶく)して寂光土(じゃっこうど)とするんだ。
 男が臆(おく)せば男ではない。どんな苦労も仏の力に変えられる。三障四魔(さんしょうしま)が強いのは、むしろ信心で、必ず勝てるという証(あか)しなんだ。人生は強気でいけ!」と。

 創価の王者に恐れはない。逡巡(しゅんじゅん)もない。気取(きど)りもなければ、威張(いば)りもない。ありのままの人間味で、庶民と共に、庶民のために、毀誉褒既(きよほうへん)など豪快(ごうかい)に笑い飛ばして戦う。現実社会の只中で、法華経の兵法を掲(かか)げて大闘争を続ける。そして、後継の宝の若人を慈(いつく)しみ、自分以上の大人材へと育てゆくのだ。

 愛する神奈川天地に、村八分の圧迫も、倒産の憂(う)き目も、命に及ぶ大病も、信心で勝ち越えてきた、誉(ほま)れの戦友がいる。
「われ地域広布の責任者なり。創価の世雄(せおう)の生き方を見よ!」と社会に信頼を広げ、保護司(ほごし)として大勢の人々の更生(こうせい)にも尽(つ)くしてきた。

 今、各地で五勇士(ごゆうし)や十勇士(じゅうゆうし)も陸続と躍(おど)り出ている。   法城厳護(ほうじょぅげんご)の王城会(おうじょうかい)や、太陽会はじめ生涯求道の丈夫(ますらお)たちも、何と頼もしく奮闘(ふんとう)してくれていることか。

 史上空前の高齢社会に、わが青年部で戦った団塊(だんき)の世代がいよいよ「黄金柱」として輝いていくのだ。
 壮年部の誕生から半世紀。「50にして天命を知る」だ。何があろうと勝って同志を守り抜く。この天命をば、共々に断固と果たし切ろうではないか!

 2月 心を灯す「喜びの対話録」を!

心を灯す「喜びの対話録」を!


 対話から、「生きる喜び」は生まれる。
 アメリカの未来学者ヘンダーソン博士がご半和の先生々と仰いだのも、対話に励むお母さんであった。
 「母は周りに、いつも声をかけていました。相手を尊敬(そんけい)して話しかけるので、皆に好かれていました。母のようになりたい! そう思ったものです」と。
 人が人を思いやる声ほど、温かいものはあるまい。
 その励ましが、人間の善なる命を呼び起こすのだ。
 生命は生命によって磨かれる。すなわち対話である。
 「月月・日日に」慈折広宣流布(じしゃくこうせんるふ)のため、立正安国(りっしょうあんこく)のため、わが創価家族の信念の行動は止むことがない。
声も惜(お)しまぬ不挑不屈(ふとうふくつ)の挑戦があるからこそ、「人間革命」の歓喜の劇(げき)は、全世界に広がっているのだ。

 日蓮大聖人は、十界のいかなる衆生も即身成仏(そくしんじょうぶつ)させる妙法の力を、「水の底なる石に火のあるが如く百千万年くらき所にも燈(ともしび)を入れぬればあかくなる
(1403ページ)と讐(たと)えられた。

 なんと鮮烈(せんれつ)な讐喩(ひゆ)であられることか。
 水底の石に秘められた火を打ち出すように、また、長き闇(やみ)に覆(おお)われた洞窟(どうくつ)を照らし晴らすように、友の心を信じ、生命尊厳(せいめいそんげん)の哲理(てつり)で劇的に蘇(よみがえ)らせていく。
 これが、私たちの仏法の語らいなのである。

 身構(みがま)える必要などない。自らの胸奥(きょうおう)に燃え上がる確信の炎(ほのお)は、縁する人の心に、しかと伝わるからだ。

「本有無作(ほんぬむさ)」という、ありのままの大蔵実の生命で、価値創造の希望の燈(ともしび)を点火していけばよいのだ。


    大境涯
   開き勝ちゆけ
      この生命
     祈り走リて
       喜び語れや

 真心こめて語っても、反発されることがある。誠意を尽くして、心ない冷笑が返ってくることもある。

 しかし、すべて「不軽菩薩(ふきょぅばさつ)」に連なる仏道修行だ。
いかなる圧迫にも屈(く)せず、一人一人を敬(うやま)い、啓発(けいはつ)の対話を貫(つらぬ)き通した不軽(ふきょう)は、無量(むりょう)の功徳を成就(じょうじゅ)した。
この如説(にょせつ)の対話によって境涯(きょうがい)を大きく開き、宿命を転換(しゅくめいてんかん)し、大福徳を漲(みなぎ)らせてきたのが、学会員である。

 毎日、泣くほどの生活苦や、病苦を乗り越えてきた埼玉の功労の夫妻は今、朗らかな笑顔で語る。
 「感謝の心で、隣人も知人も友人も、みんな幸せになってほしいと朝晩、名前を挙げて祈っています。
対話をすれば、自分が変われる。どんな人も変わる。だから、種を蒔(ま)くことをやめません!」と。

 世界には、野蛮(やばん)な暴力が噴出し、憎しみの怒号(どうご)や悪意(あくい)の虚言(きょげん)が渦巻(ま)いている。それゆえにこそ、人間を尊敬(そんけい)し、信頼し、善意(ぜんい)の連帯(れんたい)を拡犬しゆく創価の正義の声を、いやまして強く広く、高めていきたい。

 師・戸田城聖先生は、「自行化他(じぎょうけた)の題目を唱え、わが身に妙法がしみ込んでくると、折伏したくなり、人を救いたくなる。この実践によって、人生も社会も、よりよく打開していけるのだ!」と言われた。
 我らには誓願(せいがん)の題目がある。祈り、涌現(ゆげん)した仏の命で、人と会い、人と語る。その一切が仏縁(ぶつえん)となる。
高齢や病などで動けずとも、題目は必ず相手に届く。

 さあ、「今生人界(こんじょぅにんかい)の思出」と輝く、喜びの対話録を、楽しく伸びやかに勝ち広げようではないか!

 1月 誓いし願 やぶるべからず 

誓いし願 やぶるべからず 
       創価学会名誉会長  池田大作


 青き地球の新しい一年の自転(じてん)と公転(こうてん)が始まった。
 我らも、久遠元初の生命の太陽を輝かせながら、新しい息吹で、「一生成仏」という自転を、そして、「広宣流布」という公転を、たゆまずに進めたい。
 その推進力は、「法華経の行者の祈り」である。

 末法の御本仏・日蓮大聖人は仰せになられた。
 「大地はささばはづ(外)るるとも虚空(おおぞら)をつなぐ者はありとも・潮のみ(満)ちひ(干)ぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかな(叶)はぬ事は あるべからず」(1351ページ)と。
 この妙法の無窮(むきゅう)の力用を万人が解き放つために、大聖人は、最極の唱題行を末法の全人類へ授(さず)けてくださったのだ。
 「法華経の行者の祈り」とは、「誓願」の祈りである。自らが「人間革命」を誓い、「宿命転換」を誓う。「自他共の幸福」を誓い、「立正安国」を誓う。
 そして、その成就(じょうじゅ)のために師子王の心で戦うのだ。

 創立の父・牧口常三郎先生は、自分だけの利益を願う「信者」であってはならないと戒(いまし)められた。
 創価の勇者は、全生命を燃えたぎらせて、大宇宙にまで轟(とどろ)きわたる題目を唱えながら、勇猛に、誠実に、忍耐強く、菩薩の行動に打って出ていくのだ。
 だから、強い。だから、負けない。
 人間として、これほど尊い生命の境地があろうか。この究極の正義の一念に呼応(こおう)して、諸天善神も、仏菩薩も、厳然と動き、働き、守護するのである。

 わが師・戸田城聖先生は、よく同志を励まされた。
 「大聖人を胸に、広宣流布へ祈り戦えば、どんな困難も打開できる。人生の幸福の土台を必ず築ける。
 一家眷属(いっかけんぞく)の永遠の福運も積める。
 一つ一つ、信心で勝つ! これが、我々の発迹顕本(はっしゃくけんぽん)に通ずるんだよ」

 福岡で広宣流布を誓い、村八分による店の窮地(きゅうち)も、わが子の難病も祈り勝ってきた草創の父母がいる。  
 何があっても、「信心は勇気たい。『冬は必ず春となる』よ!」と皆を励まし、三変土田(さんぺんどでん)に走ってきた。
 偉大な母は92歳の今も、矍鑠(かくしゃく)と仏縁(ぶつえん)を広げ、「題目は何でも開いていける力。どんな人にも仏性がある。こちらの題目で必ず変わる。妙法を抱きしめ切って、絶対、勝つばい!」と顔を綻(ほころ)ばせる。

 私たちが、朝な夕な勤行で読誦(どくじゅ)する自我偈(じがげ)には、「慧光諸無量(えこうしょうむりょう) 寿命無数劫(じゅみょうむしゅこう)」(慧光(えこう)の照てらすこと無量にして 寿命(じゅみょう)は無数劫(むすうこう)なり)とある。

 今、192カ国・地域の同志が心を一つに、「世界広宣流布」の大願成就を誓い、「世界の平和」と「一切衆生の幸福」を祈念する時代が始まっている。
 我らの「異体同心」の題目に勝(まさ)る智慧(ちえ)の光はない。この慧光(えこう)で、いよいよ地球を照らしていくのだ。ここにこそ、人類が永遠に栄えゆく軌道があるからだ。
 「ちかいし願やぶるべからず」(同232ページ)――この大誓願に直結し、いかなる試練も「風の前の塵(ちり)」と吹ふき飛とばして、今年も勝ち進もう! 地涌の我らは勝利を誓って、乱世(らんせ)に生まれてきたのだから!

 誓願の
  祈りは無敵と
   万代に
  幸福勝利の
   大光 輝け


  • 最終更新:2018-12-26 17:10:51

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